憤りを感じても良い
前回はどうして自分の事ばかり責めてしまうのかという記事を書いたが、昨日カウンセリングへいってなんとなくその理由がわかった気がする。
先週私は人格を否定するような言葉を言われたのだが、私は傷ついたことを切り離さずにきちんと受け入れられていると思っていた。
3日くらいは引きずったが、そのあとは全くなにも思わなくなっていたし、趣味に熱中して忘れるほどであったからだ。
普段なら嫌なことがあったら一週間はモヤモヤやイライラがあって、どう解決したらいいのか分からず途方に暮れていたので、うまい対処法を見つけたのだと思っていた。
しかし昨日のカウンセリングでそれを話すと何とも微妙な顔をされた。
先生からたとえとして、ソープランドに勤めていた女性の話をされた。
ある日その女性は客から、お前の性器は人を喜ばせるためにあるんだから、とっとと使わせろ、と言われた。
それを聞いて女性は、少し悲しいがその通りだと納得し言われるがままサービスしたと言う。
これをきいてどう思う?と先生に聞かれ、私はとても悲しいことだと答えた。先生は、この女性とあなたは同じことを言っているんだよと言った。
要するに、私は馬鹿と言われて、馬鹿だなぁと受け入れてしまったのだ。
客観的に聞いたらふざけるんじゃない!と憤るところを私は何故か納得してしまっていたみたいだ。
イライラやモヤモヤがなく何となく落ち着いた一週間を送っていたが、逆の意味で受け入れてしまっていたらしい。
言われた言葉を思い出すと、そうだなぁと納得するのだがそんな風に先生に言われると憤りが生まれてくる。
帰り際、自分の心を大切にしてねと臨床心理士にも言われたが、そんなことは全く気づかなかった。
馬鹿と罵倒されて馬鹿なんだと受け入れていたなんて、
私は人に憤りを覚えたことがあまりないのだが、ということはどれだけ自分を低く見ていたのだろうか。
馬鹿と言われてもアホと言われても納得し、どれだけ卑劣な言葉にも納得する、それこそ本物の馬鹿ではないか。
もっと憤りを持っていいのだ。
憤りすら隠そうとする無意識とは恐ろしいものだ。
実感してまた視界が良くなった。
毎週カウンセリングの後は、なんでもないただの風景がとても鮮明に見えて感動する。
どうしてカウンセリングに行くたびに視界がクリアになっていくのだろう。
他の人はどんなに綺麗な風景を見ているのだろう。
私より解離している人は灰色の風景を見ているのだろうか。