親を殺したくなった
今朝目が覚めると母親が私の部屋で洗濯物を干していた。
家にはベランダは無く私の部屋の窓の外に物干し竿があって、たまに母親が洗濯物を干しに来る。
窓から少し身を乗り出さないと干せないのだが、その姿を見て瞬時に「今なら殺せる」と思ってしまった。
何故そんな恐ろしいことを思ったのか全く理解できず自分が怖くなり、そのまま布団をかぶって母が仕事に出かけるまでじっとしていた。
よく考えたら今まで無意識のうちに母親を殺す妄想を頻繁にしていたことに気付き、どうして母なのか、どうして殺したいと思ってしまうのか一日悶々と考えてしまった。
幸い今日はカウンセリングの日だったので先生にこのことを話した。
仮説として、幼少期に母から受けた淋しい思いを恨みとして持っていて、無意識のうちにそれが膨らんで殺意に変わったのかなどと思っていたが、先生の返答は全く違っていた。
深層心理学では、自立のことを「象徴的な親殺し」と表現するらしい。
参考:「母殺し」が象徴するもの
http://www.j-phyco.com/category1/entry70.html
私は母と仲が良く、親友のようになんでも話す。
母になるべく迷惑や心配をかけたくないと思っているので、出かける際は何時から誰とどこで何をするのか、帰りは何時になるのかを伝えてから出かけているし、帰る際は必ず連絡をする。
物事を決断する際は母に相談し、無意識に常に母がどう思うか考えながら行動をしている。
つまり私にとって母は全てで、とても大きな存在なのだ。
私は母に依存していて、逆を言うと私は母に常に縛られている。
まるでお母さんが大好きな小学生のようだが全くその通りで、私には今まで反抗期がなく母から離れられていないし、母も子離れ出来ていない。
しかし最近は母といるとあまり心地が良くなく、鬱陶しいとまで感じることもある。
母に縛られ自分の思う通りに行動出来ないことがストレスで、部屋に籠り母と話す時間は減った。
人間は思春期に、そのような母親の精神的束縛を拒絶する。このことを象徴的な親殺しという。
その過程で、親を殺す妄想をしたり、親とセックスをする妄想をすることも多いのだそうだ。
私が母親を殺そうと考えたのは、強い自立心が芽生えつつあるが母親の束縛から離れられない葛藤であり、遅れてきた反抗期というところか。
どちらにしろ良い兆候だということだったので説明を聞いて少し安心した。精神的に自立できる日も遠くはないのかもしれない。
起きてるだけでつらい
前回カウンセリングに行った月曜日まではひたすらゲームをしたり人と話したりして現実逃避してたんだけど、月曜に退行催眠をやってからどうにもできないほど起きている時間が苦痛だ。
退行催眠で寂しいという感情と近寄るなという感情が見えてから、その感情を切り離すことができなくなったみたいだ。
感じてしまうとつらすぎるから切り離していたのに、治療で感じるようにしてしまっていいのだろうか。
今は起きているあいだは何もする気が起きず、でも何もしないとつらいのでひたすら紛らわすのにゲームをしたりいろんなことをしているが、以前は楽しかった事でもまったく楽しめないしひたすら虚しいし寂しい。
誰かと話せば解消されるのかと思ったがそういうわけでもなく、むしろ誰かと接するほど虚しさが増す。
どうしたらいいのかわからず眠剤を飲んで睡眠に逃げているが、起きるとまた絶望感に苛まれている。
何をしても辛いままだし何もしなくても辛い、考えれば考えるほど死にたくなってしまうしどうしたらいいかわからない
退行催眠
階段をイメージしてと言われた時に一番最初に浮かんだのは何故かマイクラの世界で、シングルでやったときにみつけた洞窟だった。
先生に、雑念が出てきて階段がイメージできないが、洞窟ならあると言った。
そのまま続行していいと言われたので脳内でその洞窟を思い出しながら中へ進んだ。
私を探しながら進む
毎回思うことだがそんなの出てくるわけがない、出てきてもただの想像だと思う。
しかし、いつも想像していなかったことが起こるのだ。
しばらく探してみたが何も出てこない、何もイメージできないし無理だと言うが、促されて、洞窟の中で私を呼んでみる。
最初はぼんやりしたイメージだったが、だんだんハッキリとしたイメージになり、自分自身を遠くから眺めるイメージが自分自身の目線に近づいてくる。
洞窟内で自分の声が響き、その後なにか上の方から声が聞こえる
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだと叫んでいるのを感じ、背筋がゾクっと冷たくなるのを感じた。
だんだん声が大きくなって、近くにいることがわかる
近くにいるが、まだ見ることも触ることも出来ない。
いやだいやだという声は泣いているように聞こえるし、怒っているようにも聞こえる。
さらに声をかけて近くに行こうとすると、イメージが上からだんだんこちらへ降りてきて、私の姿が見えるようになった。
私は石のブロックで囲まれていて、狭くて暗く寒いところで裸でうずくまって泣いていた。
どうしたらいいのかわからず、いろんな声をかけるが、次第に声をかけてはいけない、近付いてはいけない存在に思えて声をかけるのをやめた。
物珍しく、しばらく眺めていた。
石の中にいるのだが、見ることは出来る。簡単に助けることが出来るのだが、あまりにも繊細で近づく事ができない。
一瞬、石の中の私と顕在意識の私が重ね合い、寂しい!来ないで!という強い感情が溢れ涙が出た。
いやだいやだといっていたのは、寂しいのはいやだというのと、近付かれるのもいやだという二つの相反する思いだった。
本当に一瞬だったが、激しい感情が津波のように襲ってきて、動悸が激しくなり、これ以上は無理だと思った。
石の中の私はあまりにも繊細で、これ以上顕在意識の私が関わると消えてしまうと思った。
ただ、その存在を認識していなかったので、しっかりと記憶に刻んでから洞窟を出た。
目を開けると、私も先生も泣いていた。
帰りにお酒を飲んで帰ったら、なんだか感情が高ぶって泣いてしまった。
一瞬重なった時の激しい感情が忘れられず軽いトラウマのようになっているみたいだ。
感じてしまっては生きられないので、自己防衛としてその感情を解離させているが、解離しすぎてしまうと死にたくなってしまうらしい。
解離している感情にダイレクトにアタックするのは少し荒療治な感じはするが、一番手っ取り早い気もする。
憤りを感じても良い
前回はどうして自分の事ばかり責めてしまうのかという記事を書いたが、昨日カウンセリングへいってなんとなくその理由がわかった気がする。
先週私は人格を否定するような言葉を言われたのだが、私は傷ついたことを切り離さずにきちんと受け入れられていると思っていた。
3日くらいは引きずったが、そのあとは全くなにも思わなくなっていたし、趣味に熱中して忘れるほどであったからだ。
普段なら嫌なことがあったら一週間はモヤモヤやイライラがあって、どう解決したらいいのか分からず途方に暮れていたので、うまい対処法を見つけたのだと思っていた。
しかし昨日のカウンセリングでそれを話すと何とも微妙な顔をされた。
先生からたとえとして、ソープランドに勤めていた女性の話をされた。
ある日その女性は客から、お前の性器は人を喜ばせるためにあるんだから、とっとと使わせろ、と言われた。
それを聞いて女性は、少し悲しいがその通りだと納得し言われるがままサービスしたと言う。
これをきいてどう思う?と先生に聞かれ、私はとても悲しいことだと答えた。先生は、この女性とあなたは同じことを言っているんだよと言った。
要するに、私は馬鹿と言われて、馬鹿だなぁと受け入れてしまったのだ。
客観的に聞いたらふざけるんじゃない!と憤るところを私は何故か納得してしまっていたみたいだ。
イライラやモヤモヤがなく何となく落ち着いた一週間を送っていたが、逆の意味で受け入れてしまっていたらしい。
言われた言葉を思い出すと、そうだなぁと納得するのだがそんな風に先生に言われると憤りが生まれてくる。
帰り際、自分の心を大切にしてねと臨床心理士にも言われたが、そんなことは全く気づかなかった。
馬鹿と罵倒されて馬鹿なんだと受け入れていたなんて、
私は人に憤りを覚えたことがあまりないのだが、ということはどれだけ自分を低く見ていたのだろうか。
馬鹿と言われてもアホと言われても納得し、どれだけ卑劣な言葉にも納得する、それこそ本物の馬鹿ではないか。
もっと憤りを持っていいのだ。
憤りすら隠そうとする無意識とは恐ろしいものだ。
実感してまた視界が良くなった。
毎週カウンセリングの後は、なんでもないただの風景がとても鮮明に見えて感動する。
どうしてカウンセリングに行くたびに視界がクリアになっていくのだろう。
他の人はどんなに綺麗な風景を見ているのだろう。
私より解離している人は灰色の風景を見ているのだろうか。
相手を許せる代わりに自分を責めるのか
何も理解する必要はない
シッタカブッタという古い本を読んだ。
基本的に四コマ漫画なのだが、人間の心理が深く描かれてる。
私は自分を理解することで楽になろうとしているが、その必要もないのかもしれないと思った。
辛いことにどうしても何故も無く、ただ辛いだけでそれでいいのかもしれない。
書くことは悪い癖で、言葉では心は表せない。
ゾウのことを言葉で説明しても絵で説明しても動画で説明しても本物のゾウのことは誰も知らないし完全には理解できない。
生き物を解剖しても命そのものは見えないし何かを探すだけ無駄なのだ。
私はただ書くことで安心したいのだ。
ただ安心したいだけだ。
書くことで何も解決はしないし理解したところで楽にはならないのだ。
本物の幸せは何もないところにあって、考えれば考えるほど遠くなるし書いても何も得られないのだ。
少し楽になると同時に私は幸せになるにはとても遠いことをしているのかもしれないとおもった。
難しく考えて悩んで常に疑問を持って目標を必要として欲望を追いかけて打ちのめされてまた疑問を持ち悩む、全て無駄なことだ。
人間は皆同じことをしているじゃないか
本当の意味で幸せな人などいるのだろうか
もしかしたら幸せや不幸せという概念すら必要のないことなのかもしれない。
夢や目標や学歴や美しさやプライドや肩書や若さ、この世の良い悪いとされているものを全て捨ててもそのままの自分で居られる。
そんな人がこの世に存在するのだろうか?
疑問を持つと遠ざかってしまうならただ無でいればいいのか。
湧き上がる感情に疑問を持たずにただ感じることができるのか。
やはり結局疑問しか出てこない。
こんな自分も全て受け入れろというのか。
不安な自分で安心していいのか。
私は何者かになりたい、常に存在を確かにしていたいと思うのだが、何者でもないのだということを理解できる日は来るのか。
上手く生きたいだけだ
私は外では自分のことをあまり話さないで笑っているので、たまに悩みがなさそうでいいなと言われるが、あまりいい気分はしない。
悩みがなくなれば幸せになるわけではない。
いくら幸せな人でも悩みはあるし辛いこともたくさんある。
周りから見ていくらお金があろうが、いくら笑っていようが、裏ではその人は絶望の淵に立っているのかもしれない。
だから私は自分がつらいということをあまり人に話したくないのだ
私に対して自分が世界一すごい悩みを持っていて辛いんだということを一生懸命話してくる人がいるがそういうのは非常に自分本位に見えてしまう。
私はただ悩みながらもうまく生きていきたいだけだ。
生きるのは辛いけどみんな辛いしみんなの辛さは私には理解できないし、私の辛さも誰にも理解されない。
だったらせめて自分で理解したいのだ。
哲学や宗教で自分を理解する人もいるが私は心理学が一番分かり易いと思う
理解することで少しでも楽になれるのだろうかと日々疑問におもうがそう思わないとやっていけない